【罪悪感】

2017年8月21日

寄り添う

 

 

今日夕方公園を散歩していたら、曇り空の下でセミが鳴いていました。

残暑のためでしょう、お花も一輪も咲いていない、夏の夕方の公園。

 

夏草がそよいでいる緑の中に、一輪のお花を発見。(上)なんか嬉しくて・・・

思わず「ありがとう」ってお花に言いました。

 

自然はいつも私たちに寄り添い、癒してくれます。

 

今日は公園を散歩しながら、なぜか数ヶ月前のお友達との会話を思い出していました。テーマは「罪悪感」。

 

6月のはじめ、とても素敵なお友達からメッセージが入りました。

「罪悪感について考え苦しんでいるお友達がいるので、紹介したい」とのこと。

その月の末頃、お友達を連れてきてくれたのです。

 

二人とも置かれた人生のステージを

一生懸命生きている

眩しいぐらい美しい女性たち

 

「自己肯定感」の大切さについて考えさせられ、テラスでワインをいただきながら、一緒に初夏の夕べを楽しんだのは、つい昨日のようです。

 

「いかにしたら罪悪感から解放されるのか?」

とても大切なテーマだと思いました。この貴重な機会をいただいて、お二人に感謝です。

 

罪悪感にどれだけの人々が悩まされていることでしょう。

そもそも罪悪感がどこから来ているのでしょうか?

 

私たちは子供の頃から、大人や社会から道徳観、宗教観や常識についておしえてもらいます。でも、この子供たちを守りたいとの気持ちで伝えてきた想いが、裏目にでて「罪悪感」となって、私たちのマインドに根づくてしまいます。

 

本来私たちのサガとして、自分にとって有益なものと思うものを抱え込む性質があります。成長の過程でそれが有益であると思う経験値があったようです。

 

その有益性は「罪悪感」によって身を守るということ。

でも、「罪悪感」は本当に私たちを守ってくれているのでしょうか?

 

実のところ「罪悪感」は大人になっていろいろなところで顔を出し、私たちを苦しめはじめます。

 

そもそも罪悪感はエゴの産物。エゴにはいつも良し悪しの2元論が存在します。全てを良し悪しで判断することによって罪悪感がうまれます。私たちは本来、2元論(良し悪し)から解放されている存在です。すべてをジャッジせずに「あるがまま」に取れれば良いのですが、どうもうまくいきません。

 

「罪悪感」から解放されるためのいくつかの方法があります。

 

一つには、本来の自分に出会うこと。本来の自分は、2元論を超越した無条件の愛の存在です。その中には、「罪悪感」は存在するスペースもありません。

 

もう一つの方法は、ちょっと大変ですが、一層「罪悪感」にズッポリ埋もれてしまうのもありかもしれません。そうすると苦しみは増し、耐えられなくなり手放さざるを得なくなります。理性で「罪悪感」を手放そうとすればするほど、もっと苦しくなります。だったら、ズッポリつかりその経験によって学ぶのもありです。

 

人は、なかなか頭で理解しただけでは、血肉となりません。経験が人を育てます。人として生まれ、無駄なものは一つもありません。この罪悪感も必要として選び取ったもの。そこで苦しみをとおして、学び成長していくことに、その意義があるのかもしれません。

 

もう一つの方法は、「罪悪感」がどこから出ているのか内観してあげること。おそらく「恐れ」だと思いますが、何に対しての恐れか理解してあげるだけで、「罪悪感」は消えていきます。

 

何れにしても、「罪悪感」に悩んでいる自分に優しく寄り添ってあげてください。今「罪悪感」を捨ていれずに苦しんでいる自分がいたとしても、オーケー。責めるのではなく、優しく寄り添ってあげてください。大丈夫。その苦しみに耐えられなくなり、手放さざるを得なくなる日がきますから。

 

「自己愛」は、私たちの人生の課題です。この「罪悪感」も自己愛を学ばせるために、存在しているものかもしれません。