寄り添う
今日夕方公園を散歩していたら、曇り空の下でセミが鳴いていました。
残暑のためでしょう、お花も一輪も咲いていない、夏の夕方の公園。
夏草がそよいでいる緑の中に、一輪のお花を発見。(上)なんか嬉しくて・・・
思わず「ありがとう」ってお花に言いました。
自然はいつも私たちに寄り添い、癒してくれます。
今日は公園を散歩しながら、なぜか数ヶ月前のお友達との会話を思い出していました。テーマは「罪悪感」。
6月のはじめ、とても素敵なお友達からメッセージが入りました。
「罪悪感について考え苦しんでいるお友達がいるので、紹介したい」とのこと。
その月の末頃、お友達を連れてきてくれたのです。
二人とも置かれた人生のステージを
一生懸命生きている
眩しいぐらい美しい女性たち
「自己肯定感」の大切さについて考えさせられ、テラスでワインをいただきながら、一緒に初夏の夕べを楽しんだのは、つい昨日のようです。
「いかにしたら罪悪感から解放されるのか?」
とても大切なテーマだと思いました。この貴重な機会をいただいて、お二人に感謝です。
罪悪感にどれだけの人々が悩まされていることでしょう。
そもそも罪悪感がどこから来ているのでしょうか?
私たちは子供の頃から、大人や社会から道徳観、宗教観や常識についておしえてもらいます。でも、この子供たちを守りたいとの気持ちで伝えてきた想いが、裏目にでて「罪悪感」となって、私たちのマインドに根づくてしまいます。
本来私たちのサガとして、自分にとって有益なものと思うものを抱え込む性質があります。成長の過程でそれが有益であると思う経験値があったようです。
その有益性は「罪悪感」によって身を守るということ。
でも、「罪悪感」は本当に私たちを守ってくれているのでしょうか?
実のところ「罪悪感」は大人になっていろいろなところで顔を出し、私たちを苦しめはじめます。
そもそも罪悪感はエゴの産物。エゴにはいつも良し悪しの2元論が存在します。全てを良し悪しで判断することによって罪悪感がうまれます。私たちは本来、2元論(良し悪し)から解放されている存在です。すべてをジャッジせずに「あるがまま」に取れれば良いのですが、どうもうまくいきません。
「罪悪感」から解放されるためのいくつかの方法があります。
一つには、本来の自分に出会うこと。本来の自分は、2元論を超越した無条件の愛の存在です。その中には、「罪悪感」は存在するスペースもありません。
もう一つの方法は、ちょっと大変ですが、一層「罪悪感」にズッポリ埋もれてしまうのもありかもしれません。そうすると苦しみは増し、耐えられなくなり手放さざるを得なくなります。理性で「罪悪感」を手放そうとすればするほど、もっと苦しくなります。だったら、ズッポリつかりその経験によって学ぶのもありです。
人は、なかなか頭で理解しただけでは、血肉となりません。経験が人を育てます。人として生まれ、無駄なものは一つもありません。この罪悪感も必要として選び取ったもの。そこで苦しみをとおして、学び成長していくことに、その意義があるのかもしれません。
もう一つの方法は、「罪悪感」がどこから出ているのか内観してあげること。おそらく「恐れ」だと思いますが、何に対しての恐れか理解してあげるだけで、「罪悪感」は消えていきます。
何れにしても、「罪悪感」に悩んでいる自分に優しく寄り添ってあげてください。今「罪悪感」を捨ていれずに苦しんでいる自分がいたとしても、オーケー。責めるのではなく、優しく寄り添ってあげてください。大丈夫。その苦しみに耐えられなくなり、手放さざるを得なくなる日がきますから。
「自己愛」は、私たちの人生の課題です。この「罪悪感」も自己愛を学ばせるために、存在しているものかもしれません。